【藤本さんちの“こくはく・こくはつ”】Vol.10 乱れに乱れる日本語(ご主人 義一さんの巻)

※画像をクリックすると拡大画像が表示されます
※画像をクリックすると拡大画像が表示されます

 言葉と文字の間を往ったり来たりしている職業だから、どうしても日常生活の中で気にかかる言葉や文字に引っかかる。

 たとえば、喫茶店に入る。ウエイトレスがなかなかこない。ウエイト(待つ)人は、こちらになってしまう。

 そして、コーヒーを注文する。彼女はミルクを持って佇んでいう。

 「結構ですか」

 これも、おかしい。結構というのは、こちらが拒む時にいう言葉である。

 「ミルク、どうですか」

 「結構です」

 といえば、日本語はすんなり通る。

 それが、

 「結構ですか」

 「いや、入れて下さい」

 ではおかしい。あべこべである。

 今日もラジオのDJを聞いていて、びっくりした。電話で、聴取者とパーソナリティが話している。

 「すると、あなたは一介のパン屋さんですな」

 といったのである。一介の……とはトルニ足ラナイ、価値ノナイ、ツマラナイということで、間違っても相手にいう言葉ではない。

 「私は一介の作家でありまして……」

 というふうに使うのならわかるが。それに、パーソナリティ(人格者)タレント(才人)と、自分で名乗るのもおかしい。

 いい違って、意味も反対という念の入った女性アナウンサーにも出くわす。

 「今日は、フォークグループの××さんにおいでいただきました。ほんとにムツクケキオノコという感じですわねえ、××さん……」

 彼女は逞しい男といいたかったのだろう。ムクツケキがムツクケキになったは愛嬌だが、ムクツケキとは、むさくるしいとなり、むくつけしという文語形容詞の連体形だから、正体不明の男ということになる。げに、おそろしい、ではないか。

 ホテルなんかで困ることがある。エレベーターの前で、社長級、重役級が十人ばかりいて、戸が開くと、

 「どうぞ、お先に……」

 「いや、どうぞ、どうぞ……」

 とやっている裡(うち)に戸は閉ってしまう。自動式だから、機械は正直だ。開のボタンを誰も押していなかったから、ツーと上って行く。こちらは、ぐったりしてしまう。米語式に、アフター・ユーとはいかないものか。

 「アフター・ユー」

 「サンキュー」

 と、これは甚だ現代の合理ではないか。

 いや、もっと奇妙なのがある。

 「サイヨリの駅は、どこですか」

 という。講演依頼の大学生が、である。

 「サイヨリ……」

 こっちは、なんのことかわからない。ふと、北海道のサイハテの風景などを思い浮かべてしまう。

 なんことはない。最寄の駅である。モヨリをサイヨリと発音して、はばからない。この学生は最中(モナカ)を(サイチュウ)と読んでいるのではないだろうか。

 もっとひどいのがある。

 「シンサイの心得についてお答え下さいませんか」

 こっちは、てっきり震災=地震と考えてしまい、水とかマッチとか懐中電灯とか米とか缶詰とか答えていると、

 「ハア……、ハア……」

 と、空気の抜けたような相槌をうつのである。これが大手の出版社の編集者なのだ。

 「どうして、懐中電灯が必要なんですか」

 「そりゃ、電気は全部消えるよ。危険だろ。ガスもとまるし……」

 「どうして、電気消えるのですか……」

 「どうしてって……」

 ようやくわかったことは、シンサイは震災ではなくて、新妻の心得だった。がっくりどころではなく、一日中、疲労を覚えてしまうのである。ぐたッという感じだ。

 考えてみると、最近、とくにこの十年ぐらいは、和語を漢字に当てはめたという根本の教育が行われていないのではないかということである。

 たとえば、松をマツというのは「待つ」から発生した言葉を松に移した、といったこととか、イデハリを「出張」に当てはめているうちに、音読でシュッチョウになったということを教えられていないから、最寄がサイヨリになったり、新妻がシンサイになってきたのではないかと思う。

 今日も伊丹に住んでいる姉が来ていうのに、今の若いお母さんは「一寸法師」を理解できないらしい。

 「一寸は何センチですか」

 という人もあれば、一寸法師を、チョットホーシという人もいるという。まさか、3.3センチ法師ともいえないではないか。

 和語と漢字と音読を、あらためて考えなければならない。大変な国になってきたよ、日本は。

※1977年9月16日号掲載

あなたにおすすめの記事