【藤本さんちの“こくはく・こくはつ”】最終回 なにかせないかん(奥さん 統紀子さんの巻)

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 はたちそこそこの女の子が、口をとがらせて、わたしにいいました。

 「わたしがね、“藤本サン、どうして奥さんを働かせるの”ってきいたら、“アイツが働いたら、ゼンゼン儲からへんねん。ゼニにならんからなァ、女房をはたらかせるのは……”っていうてはったわ」

 そして、こうもいいました。

 「男の心理って、そんなものかなァ……。女房が仕事をしていますってシャカリキになるのは、きらいなのね、きっと……」

 なにかしたい、なにかしなきゃ、このままで人生を終わったのではいけない――わたしがこう考えはじめたのは、そう、もう三十もなかばを越したころでした。

 それも、ある朝突然に、そう思ったのです。いつもように、朝の化粧を済ませ、髪を梳(す)いていたとき、鬢(びん)に白いものをみつけたのです。

 「あら、白髪……」

 何気なく髪をかきあげて、愕然としました。一本や二本じゃない白いものが、指の間からこぼれ落ちたのです。

 「このまま、年をとっていく……」

 恐怖にちかい気持ちでした。

 それまでは、主人の世話と子育ての明け暮れ。不規則な主人のスケジュールと子育ての二本立てで、ゆっくり自分自身の生活を振り返る余裕など、まったくない何年間でした。遮眼帯をかけた馬のように、自分の目の前だけをみつめて、ただひたすら駆けてきた何年間だったのです。

 そして、ほっと一息。自分の身辺を見まわして、これでいいのかしらと、自分の生き方に疑問を感じたときの、暗い底知れぬ淵をのぞいたような、いいしれぬ気持ちは、女なら一度は味わうものなのかもしれません。

 「わたしは立派に子どもを育てあげました。主人の縁の下の力持ちになって、主人を男にしました。これが、わたしの生き甲斐なのです」

 こう、胸を張ることも女の勲章です。それはそれで、立派です。でも、わたしは、それだけを生き甲斐にできなかった……。

 「わたし、なにかせんといかんと思うの」

 「なにがしたいねン」

 「なにかわからへんけど、せないかん…」

 「お前、なにができるねン」

 「さあ……。別に……」

 「なんにもできん女が、なにかせないかん、せないかん、と焦っても、しょうがないやろ」

 「人生を終わるときに、あぁ、わたしは十分生きた、と思って死にたいの」

 こんなやりとりが、わたしたち夫婦の間で二、三年続いたでしょうか。

 なにもできないのに、ただ社会に出たい、ではダメだ、という主人の言葉が、わたしには痛烈でした。忙しさにかまけて、いずれはこんなときも来るであろうことを予測しなかった自分の浅はかさに、ホゾを噛む思いでした。

 主人を納得させる技術を身につけることがまず先決だと悟ったわたしは、保母の資格をとろうと思ったのです。子育てを終わった女ならではの保母さんになりたい、と思ったのです。

 その取っかかりとして、母校の児童心理学教室の聴講生になりました。大上段にふりかぶってわたしは勉強をはじめましたとは、気恥ずかしくてとてもいえず、家族には内緒で週一回、午前中の二時間、学校に通いました。

 娘たちが学校へ出かけ、主人がまだ眠っている朝のわずかの時間をやりくりするのです。そのうち何カ月か経って、主人も気付いたふうですが、別になにもいいませんでした。

 ただ、ひと言、

 「学問は問うて学ぶもんや。学答ではあかん」

 義父の死や、引越しやで、結局、期末の試験を受けることができず、心理学の勉強も中途半端で終わらざるを得なくなってしまいました。けれど、この体験が、わたし自身、モヤモヤとひきずっていたものを断ち切るステップになったような気がするのです。

 忙しいから何もできないとか、周囲への気兼ねがあるから、何もしないでおこうとか、それは自分の無為を転嫁させているにすぎない。本当に自分が生きようとしていないからだ、と気づいたのです。

 何年かして、自分の人生をふり返ったときに、

 「本当は、こういうこをやりたかったんだけど、周囲の状況が許さなかったから、できなかったのよ」

 と、人のせいにするような科白(せりふ)だけはいいたくない、と思ったのです。

 いま、わたしは、主人のいうゼニにならない仕事――らしきものをはじめて、丸三年になります。でも、今もって、わたしは、自分が何を求めているのかわからないのです。

 「なにか、せなあかん」

 そのなにか、をやってはいるのだけれど、それが本当に、わたしの求めているなにかかどうかが、わからないのです。

(おわり)

※1977年9月30日号掲載

 

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