
毎週、家族四人が交替で書くことになった。
一番手の有子(長女、高二)のテストに関しての文を読んで、女子としては甚だ論理的なものであると感じた。
この論理的な方法のすすめ方は、現代の教育そのものの反映であるような気がする。
幼い日、有子は、もっと感覚的な、自由奔放な発想をする子供であった。
冬の日、おれが徹夜原稿を書いている。がストーブは危険なので、電気ゴタツを机にしていた。隣室が子供二人の寝室である。
午後十一時をまわった頃、子供たちの声が聞えた。
有子が五歳で、次女の名子が二歳であったと記憶する。
なにをいっているのかと、おれはペンをおいて、煙草に火をつけて聞いていた。女房は階下で片付けをやっていた。
二人の子供は、午後八時頃に就寝している。だから十一時に話声が聞えるということはない。
「こわい、おねえちゃん、こわいよォ」
名子が、泣きそうにいっている。
「なにがこわいの……」
五歳は、わりにはっきりした声でいっている。寝呆けた、という感じではない。
「そら、誰かきた。誰かきて、たたいているよォ」
という。
おれは、はじめ、名子がこわい夢を見て、姉を起こしたのだろうと思っていた。が、そうではないらしい。風が戸をたたいている音が、名子はこわいらしい。そういえば、トントンと小さな拳で叩くようにも聞える。
「ほーら、来ている、たたいているよォ」
名子は、ちょっと声を大きくした。
すると、有子がいったのだ。
「名子ちゃん、あれはね、雨戸さんと風さんがお話してるのんよ」
と。
「お話……」
「うん、お話してるのんや。さ、寝なさい」
すぐに二人とも、安らかな寝息をたてはじめた。
おれは、この幼い二人の対話を耳にした時、ほっと救われた気持になった。風が吹きつのっている戸外と、狭い部屋の中での幼い二人の話し合いが素晴しいと思ったものだ。おれは、疲れが消えるのを覚えた。おそらく徹夜しても、こころよい徹夜になるだろうと想像した。そして、親が子供から得る夢とか安らぎとかは、こういった短い、さりげない話なのだと思った。
そしてそのとき、一年近く前の、やはり冬の夜の二人の話を思い出していた。この時、名子はまだ言葉は出来なかった。ようやく前歯が生えた頃だ。
これも深夜だったが、突如として有子が泣きはじめたのだ。それも普通の泣き方ではない。
「ウワワァ、タチュ、ウワワァ!」
といった声をあげた。タチュというのはタスケテ!という言葉かもわからない。
おれは、やはり原稿を書いていたのだが、びっくりした。声があまりにも危機感をはらんで、異様であったからだ。
おれは、すぐさま、隣室に飛び込んだ。この時も、女房は階下で片付けものをやっていたが、この声と、おれのたてた物音を聞きつけてやって来た。
見ると、布団の上に名子は腹這いになって、姉のパジャマから出た足の、一番柔かそうなところに噛みついているのだ。
有子は、夢うつつで逃がれるべく、両手で空中を掻いている。
歯が生えかけて、むずむずする名子が、隣りに寝ていた有子の足に噛みついたのだ。
二人を引き離した時、有子はようやく夢から醒めた。
「どうした……」
と、泣きじゃくっている有子に訊ねると、
「七人の小人さん、七人の小人さんが噛みついた」
という。
そういえば、白雪姫の絵本を女房に読んでもらっていた。
「あんた、自分が白雪姫のつもりになっているんでしょ」
女房にいわれて、有子は現実にもどり、涙を小さな手で拭って照れ、エヘヘと笑って寝たものだ。
この子供たちが、かつてもっていた夢は、一体どこに行ってしまったのだろうか。幼稚園に入った頃まではあったが、次第に消えてしまった。詰め込み主義一本の教育が、夢の根を断ち切ってしまったのではないだろうか。
そういえば、去年、小学三年生の大阪府下三校の先生の指導案を見せてもらった時、どの指導案も判で捺したように同じものであり、甚だ理論的であり、お手本を写したような感じがしたのが不気味であった。
子供の根元にある夢を、親も学校も育てていくべき時代ではないのか。
※1977年7月15日号掲載