【母娘のカタチ】1977年 アサヒファミリー創刊時にエッセー連載 藤本統紀子さん

「藤本義一の書斎~Giichi Gallery~」で。
(左から)統紀子さん、有子さん、芽子さん

 「朝日ファミリー」は、いつも地域の女性たちから元気をもらってきました。1977(昭和52)年の阪神版創刊時、家族4人のリレーエッセーで紙面を飾っていただいたのが藤本義一さん・統紀子さん夫妻と、有子さん・芽子さん姉妹でした。いまもすてきな藤本さん母娘3人を訪ねました。

 

 

女性の園で 義一さんの生活術

 1977年夏に産声を上げた「アサヒファミリー」。阪神版1面の目玉コラムは「藤本さんちの〝こくはく・こくはつ〟」(全12回)だった。その3年前に直木賞を受け、テレビ番組の司会などで活躍していた義一さん(当時44)と、統紀子さん(同42)、有子さん(同高2)、芽子さん(同中2)が1人ずつリレー式にエッセーを執筆。両親の子育て論から、姉妹の学校での出来事まで、折々の思いが率直につづられた。

 「父の回では、私たちの話がおもしろおかしく少し盛って書かれていました。お互い事前に原稿を見せない約束だったので、何が書かれているかドキドキ。学校で恥ずかしかったのを覚えています」と芽子さんは笑う。

 家では縦のものを横にもしなかったという義一さんだが、女性に囲まれての生活術は練っていたようで、有子さんは「怒られている時は、心の中で『月の砂漠』を歌ってたらいいねん。悲しそうなメロディーを思い浮かべたら神妙な顔つきになるし、話も過ぎていくと、父にこっそり教えてもらっていました」と、義一さんらしいエピソードを思い出す。

 

 当時の紙面を見ながら思い出を語ってくれた統紀子さん
当時の紙面を見ながら思い出を語ってくれた統紀子さん

「何かせなあかん」 責任を持って

 結婚と同時に新聞記者を辞めて主婦業に専念していた統紀子さん。しかし、30代半ばになると、「何かせなあかん」と思い始める。「夫から『何がしたいねん? 何ができるんや?』と聞かれ、自分にできるものは自分で探さないといけないと気付かされました」と統紀子さん。自分の人生、やってみてダメだったら戻ればいいと一念発起し、有子さんが通っていた関西学院大学で社会心理の聴講を始めたのを皮切りに、多彩に活躍を始める。

 80年代初めからはテレビや雑誌にも登場。今や当たり前の〝女性の社会進出〟を先取りした。「今は男性と肩を並べて仕事ができる社会になりつつありますが、問題が起こると、男性は厳しく批判されるのに、女性はどこか〝しょうがない〟と許してもらうことがまだ多い。本当の意味で男性と同じスタートラインに立つために、社会は女性に正当な評価をするべきだと思います。おかしいことにはおかしいと言われないといけないですね」と統紀子さんは話す。

 

3人それぞれに 新たな輝き

 連載時の母の年齢をすでに上回った娘たち。「多忙な父を支えながら、仕事も家のことも頑張っていた母は大変だっただろうなと、今この年になって思います」と有子さん。義一さんは2012年に他界。統紀子さんは、いまシャンソン歌手として、自らコンサートを開くほか、京都のライブハウスを支援する。「昔、テレビでキダ・タローさんに歌が下手と言われたのがきっかけで。これも私の自己主張の一つです」と統紀子さん。有子さんは父も苦しんだ中皮腫の患者団体を支え、芽子さんは画家として活躍する。紙面を彩った仲良し母娘は、いまも輝き続けている。

 

「藤本義一の書斎~Giichi Gallery~」には再現された書斎、約1,500冊の蔵書、絵画、思い出の品、記念品などを展示。

芦屋市奥池町11-10、℡090・8126・1933(館長・中田有子) ※1~3月は冬季休館、4月から土・日曜11〜16時開館

※2016年3月掲載

「藤本さんちの“こくはく・こくはつ”」はこちらからご覧ください

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